DHA(ドコサヘキサエン酸)という言葉を聞くと、多くの方はヒトの健康維持を思い浮かべるかもしれません。日々の健康を補うサプリメントなど、DHAは私たちの暮らしに身近な栄養素というイメージが定着しているからです。
しかし、視点を少し変えて水産養殖の現場を覗いてみると、DHAは全く異なる役割を担っています。Umiosの養殖・研究の現場においては「孵化直後のクロマグロの赤ちゃんの生存」を左右するような重要な栄養素として扱われています。
ヒトにとっての「健康維持」と、クロマグロの赤ちゃんにとっての「生命維持」。同じDHAという成分でありながら、それぞれに最適な形やアプローチは異なり、私たちが日常で触れるイメージと養殖現場での役割には大きなギャップが存在します。
この記事では、Umios(ウミオス)株式会社が奄美大島で1987年から取り組んでいる「完全養殖クロマグロ」研究の一部である、孵化直後のクロマグロの赤ちゃんの成長に深く関わる「DHA」、さらに「マグロにとってDHAはなぜ必要なのか」をご紹介します。
鹿児島県・奄美大島に位置するUmiosの養殖拠点では、二つのアプローチが並行して行われています。
一つは、市場へ安定してマグロを届けるための「養殖マグロ」の生産です。私たちがお店で目にする美味しいマグロを育てる、ビジネスの基盤となる事業です。
そしてもう一つが、天然の資源に頼らない未来を目指して長年続けられている「完全養殖クロマグロ」の研究です。育てた成魚から採卵した卵を孵化させ、稚魚(種苗)から成魚へと育てて次の世代へ繋ぐ取り組みです。養殖場に隣接したUmios Fish Labにて養殖技術の研究開発を行っています。
(完全養殖クロマグロ 卵から種苗になるまで)
海洋において、天然のクロマグロの⾚ちゃん(仔⿂:しぎょ)が成⿂まで育つ確率は決して⾼くありません。⼀度に数千万個もの卵が放卵されるものの、無事に成⻑できるのはごくわずかといわれています。卵からふ化したばかりのクロマグロの⾚ちゃんは、まずはお腹にくっついている「卵⻩(らんおう)」という袋から栄養を吸収して過ごします。
この栄養が尽きた後は⾃分の⼒で餌を⾷べ始めなければなりませんが、この時期のクロマグロの⾚ちゃんは、体⻑4mm程度と⼩さく、まだ⼝も消化器官も未発達です。この段階で、適切な栄養を摂取できなければ、やがてエネルギー不⾜に陥り、命が尽きてしまう運命が待っています。
天然でも養殖でも、これがクロマグロにとって最初で最大の関門なのです。養殖現場では、成⻑したクロマグロとは異なる「専用の餌」を与える必要があります。
(成長したクロマグロに与える冷凍ブロック餌(サバなど))
養殖事業では、まずこの段階での仔⿂の減少を抑え、種苗として使える健全な稚⿂を育て上げることが課題となります。 Umiosでは、ふ化してから2〜18⽇⽬までのクロマグロの⾚ちゃんに特別な「栄養デリバリー⼿法」を⽤いています。微⼩なプランクトンの⼀種である「ワムシ」の体内に特別な栄養強化剤を取り込ませ、いわば「栄養強化したワムシのデリバリーカプセル」を与えているのです。このように⼩さな⼝の仔⿂でも、成⻑期に必要な栄養を摂取できる仕組みを整えています。
この栄養強化剤の構成成分のひとつが「DHA」です。
(給餌初日(ふ化後2日目)給餌前)
(給餌初日(ふ化後2日目)給餌後)
給餌前と給餌後を比較すると、給餌後は消化管内にワムシが存在していることから、しっかりと栄養強化剤を体内に取り込んでいることが分かります。
(ふ化後13日目)
このように栄養強化したワムシを与えたクロマグロの赤ちゃんは13日目を過ぎるころには平均9mm程度まで成長します。
ここからは「Umiosのクロマグロ」から、「マグロという魚種全般」に話を移し、説明していきます。
現場で手厚くDHAを与える背景には、そもそもマグロ特有の生理生態があります。しかしなぜ、成長期の初期段階なのでしょうか。「魚だから自らDHAを作りだせるのでは?」そう考えるのは当然です。
実は、魚は種によってDHAの合成能力が異なり、海産魚の多くは体内でDHAを合成できません。マグロの赤ちゃんにとって、DHAは単なる栄養ではなく、成長期にとって生命のパスポートといえるくらい重要なものですが、特に仔魚期はDHAを作り出す能力が乏しいため、外部から補給(デリバリー)する必要があるのです。
さらに生理生態をひも解くと、DHAはマグロが時速80kmを超える速さで疾走するための「泳ぎのエンジン(心臓と筋肉)」をつくる重要な成分であることが分かっています。
泳ぎ続けなければならない、「宿命」を支える
マグロやカツオは「泳ぎを止めると死んでしまう」と言われますが、これは自分でエラを動かして呼吸する筋肉を持たず、口を開けて猛スピードで前進しながらエラに水流を送り込む「ラム換水」という方法でしか酸素を取り込めないためです。 たとえふ化直後であっても、生きるためには泳ぎ続けなければなりません。将来、海のハンターとして疾走するためのエンジンとなる強靭な心臓としなやかな筋肉を育て上げるために、DHAという脂質が不可欠なのです。
(生簀内のクロマグロの遊泳 鹿児島県・奄美大島 篠川漁場)
動体視力と「繊細な目」を育む
マグロは、魚類の中でも特に「目(視覚)」への依存度が高い生き物です。脳の構造を見ても視覚情報を処理する部分が大きく発達しており、網膜組織の50%以上がDHAで構成されています。
(生簀内を泳ぎながら的確に餌の魚をキャッチするクロマグロ 鹿児島県・奄美大島 篠川漁場)
神経や脳、視覚など爆発的なスピードで発達する時期に向けてクロマグロの赤ちゃんへ十分なDHAを与えることは、網膜内の光受容センサーの感度と情報伝達スピードを高めることにつながります。これは、動きまわる餌を的確に捉えるための「動体視力」や、わずかな明暗や光の変化を察知する「繊細な視覚能力」という、海のハンターとして生き抜くための“二つの優れた目”を育むための重要な鍵となるのです。
へい死(衝突死)を回避する
豪快なイメージのあるクロマグロですが、実はデリケートな一面を持っています。養殖の現場において課題となっているのが、突然の光や音の刺激に驚いてパニックを起こし、生簀の網などに猛スピードで激突して死亡してしまう「へい死(衝突死)」です。
仔魚期に十分な量のDHAを摂取することは、刺激に対する適応力やストレス耐性を高めることにつながります。脳や神経系が爆発的に発達するこの時期にDHAを適切に与えることは、突発的なパニックや衝突行動を防ぎ、へい死リスクを抑える大切な防御策となるのです。
(クロマグロ同士の衝突 鹿児島県・奄美大島 篠川漁場)
発育のステージごとに切り替わる「身体の仕組み」
ふ化2日目というごく初期から始まる、ワムシを介したDHAの補給ですが、なぜこれほどピンポイントなタイミングなのでしょうか。その理由は近年の研究によって、マグロ自体の発育メカニズムから徐々に解明されています。
マグロは、ふ化してからの日数に応じて、身体の成長に必要な仕組みが驚くほど計画的に切り替わっています。ふ化後5日目頃までは脳や神経系の発達はまだ緩やかですが、ふ化後10日目を迎える頃になると、網膜や神経のネットワークが一気に動き始めます。さらにふ化後15日目を過ぎると、その動きは筋肉や内耳、そして効率よく栄養を吸収するための消化器官へと、連鎖するように全身のパーツへ広がっていきます。
つまり、成長のステージに合わせて、マグロに必要な栄養を先回りして与えておく必要があるのです。Umiosが奄美大島の養殖現場で長年積み重ねてきた飼育管理や観察ノウハウは、こうした魚たちの生命のサイクルや発育のタイミングに合わせたものになっています。
自然界の繊細な生命の仕組みを深く理解し、現場での確実な成長へと繋げていく。その丁寧な積み重ねが、次世代へバトンを繋ぐ完全養殖の基盤となります。
(クロマグロの給餌 奄美大島 久根津漁場)
今回ご紹介したマグロの生理生態や発育のメカニズムから、なぜUmiosがクロマグロの赤ちゃんにDHAを与えているのか、その理由をお分かりいただけたのではないでしょうか。海のハンターとして生き抜くための「泳ぎのエンジン」に深く関わるDHAですが、マグロだけの特別な栄養素ではありません。それぞれに適した形や役割は異なっても、私たちヒトも体内で十分な量を合成できないからこそ、健やかな毎日のために積極的に食事から取り入れたい大切な栄養素です。
私たちが何気なく口に運ぶ日々の魚料理。その命の仕組みと海の恵みに、少しだけ想いを馳せてみませんか。
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